"Payback Time"




 その日は美鶴を始め、女性陣が軒並み寮を空けた。
 必然、タルタロスは休みという事になり、時間を持て余した男性陣は何をするでもなくつけっぱなしのテレビにぼんやりと目をやるばかりだった。休前日のゆっくりした雰囲気とは別に、空調は快適に保たれてはいるもののどこかじっとりとした暑さがまとわりつくような夜だった。

 カラン、と氷のぶつかる音がして、順平がそちらへ視線をやると天田がソファの隅で舟を漕いでいた。氷の音は、てのひらの中にある麦茶の入っていたグラスかららしい。手のぬくもりで徐々に溶けていったのだろう。グラスの中には溶けた薄茶色の水が微かに溜まっている。
 かくり、と首が一段大きく沈み、そこではっと天田は顔をあげた。
「寝てたなあ」
 順平が少しからかいを含めた声色で笑いかける。天田はじろりと見返して、別に、とひとことだけ返してテレビの方へと視線をやった。
 一見重々しい、けれどどこか間の抜けた音楽の流れる画面は意識を手放す前とほとんどやっている事は変わらないように思えたが、実際のところどのくらい眠っていたのかわからない。コマーシャルが挿入されたのか、ずっと同じ事を繰り返しているのか。もう残暑も終わりかけだと言うのに未だに夏休み気分の抜けない心霊特集の番組は、今まさにクライマックスを迎えようとしていた。
「廃墟好きの友達、いたなあ。こういうの好きっつってた」
 雑誌と交互にではあるが比較的熱心に見ていたらしい順平は、天田の視線を追う形で画面に目をやる。
 わざわざダウンライトで演出された緑がかった闇の色は、影時間のそれよりももう少し暗い。けれど、月のせいか、あの塔のせいか、時には昼間のようにさえ感じられる明るさを伴う隙間の時間の闇は、思い出すだけで心を波立たせ、暗い影を落とす。
 この緑の闇は、あれよりもずっと暗いのに、天田にはひどくまぶしく感じられて目を細めた。

「天田、眠いなら部屋で寝ろ。今日はタルタロスも無い。こんな日くらい早く休んでおけ」
 半分だけ開かれた天田のまぶたはいかにも重そうに、眠そうに見えたらしい。少し離れた場所にいた真田はいつもより少しだけ大きな声でそう言った。
「もうあんまり眠くないですよ。目、冴えちゃいました」
 それは決して強がりではなかったのだが、そうは見えなかったらしく、順平などはあからさまに子ども扱いした物言いでなんとか就寝させようとする。他のメンバーも概ねそうであるようだったので、ここで求められている対応は自室に下がることだと天田は判断した。
「…わかりました、じゃあお先に失礼しますね。おやすみなさい」
「おう、オヤスミー」
 へらりと満足げに笑って手を振る順平の声に、テレビからの女の高い悲鳴が重なった。
 天田はそれに背を向けほとんど氷の溶けたグラスを手にして立ち上がり、台所へ足を向けた一瞬後、頭上から伸びてきた手がそれをするりと抜き取った。
「あっ…」
「置いといていい。…寝ろ」
「荒垣さん」
 顔を上げたときには既に背中を向けられていたので表情は窺えなかった。グラスを抜き取る一瞬だけ視界に入った荒垣の手は、知らず汗ばむようなこんな夜にもかさかさと乾いたように見えた。
 天田は無意識に追いかけた手のやり場に困り、視線をさまよわせた後、ぎゅっと拳を握ってうつむいた。
「…すみません」
「……眠くねえならここにいりゃいい」
 いつもの、自分に対してだけ特に低い声でぼそりとつぶやく荒垣の言葉に天田は目を瞠った。
 部屋に戻っても、きっと眠れはしないだろう。
 テレビの中の緑色の闇。直接それがもたらしたわけではないけれど、それによって引き起こされた記憶に心が波立って仕方がないのだ。握った手が汗ばんでくる。あの明るい緑の闇の中には、本当は、一秒だっていたくない。タルタロスのないこんな日は、あれが訪れる前に眠りに落ちてその時間をやり過ごしてしまいたいのに、あの軽い軽いダウンライトの演出に余計なものを呼び覚まされてしまった。出演している彼らは知りもしない、想像すらしないのだろう、演出されたものではない緑の闇の中で、本当に人の生き死にが行われていることなど。

「ここにいても、する事ないですし」
 天田は顔を上げた。荒垣は背を向けたままでやはり表情は見えない。
「そうか」
「…おやすみなさい、荒垣さん」
 荒垣の横をすり抜けて、そのまま階段を上がった。追い抜きざまに一瞬、視界の端に荒垣の顔がうつったが、目深く下ろされたニット帽と前髪に遮られてその奥にある瞳は暗く影にしか見えなかった。

 
 
 重厚に作られた建物自体と同じく、重みを持った扉は少しだけ軋んだ音を立てて閉まった。明るい廊下からまっくらな部屋に足を踏み入れ、手探りで電灯のスイッチを探す。まだ、この部屋には慣れない。
 何度かちらついた後、白い光は部屋をくまなく照らした。ベッドサイドに立てかけられた長い槍がその光を鈍く反射している。天田はクローゼットに向かい、就寝用の着替えを手に取った。手触りの良いそれは、この寮に移ってくる際に美鶴に渡されたものだ。パジャマくらい持っている、と困ったように笑う天田に美鶴は、もう用意してしまったからと微笑んだ。
 ふかふかとやわらかな毛足に顔を埋める。

『そうか』

 すれ違ったとき、荒垣の瞳も表情も窺うことは出来なかった。ただ、最後のひとことは何か言いたいことを含んでいる気がした。それはきっと間違っていない。荒垣の寡黙さは生来のものではないように思う。何かしら、思うところ、言いたいことを無理やりに抑え込んで喉の奥に溜めて、ぽつりぽつりと選ぶように言葉を発しているように感じる。そしてそれは自分に対して特に顕著だと天田は思った。
(当たり前か)
 頬に当たるやわらかさから顔を上げ、リボンタイを引き抜く。仕立ての良い制服の上着から袖を抜き、ハンガーにかけて、そこまでして天田はベッドに腰掛けた。そのまま仰向けに倒れる。
 煌々と光る蛍光灯に照らされて、天田は先ほどのテレビ画面を見たときのように目を細める。
 このまま、眠り込めるだろうか。
 さらりと前髪が一房落ちてきて視界を遮った。跳ね気味の髪はコンプレックスというわけではないが時折面倒だ。意外に髪は固いのね、とゆかりに言われたことがあるが、その毛先が時々肌や目玉を刺す。まだなだらかな曲線を持つ自分の頬をてのひらで撫で、そのやわらかさに天田は歯噛みした。ゆっくりと目を閉じる。
 ラウンジにいたところでする事は何も無い。そう言いはしたものの、それはこの部屋でも同じだ。ベッドに沈む感触はどこか不安定で、閉じたまぶた越しに感じる光と共に、霧の中に浮かんでいるような心持がする。
 眠くないならここにいろ、と彼は言った。
 眠いのなら部屋へ戻れと言った他の人たちと言っている意味はそう変わらないように思うが、その言い回しに天田はどうにも表現しがたい感情が胸の内に落とし込まれた気がして、もやもやと腹の中に渦巻く。
 続けて言いたいことはあるくせに、それを口にしない、出来ない荒垣が苛立たしい。飲み込むならば、最初から口に出さねば良いのだ。
 自分のように、と天田は思った。
 中途半端に過去の、本来の自分を捨てきれない荒垣の言葉はひどく天田を動揺させる。気付けばきつく眉を寄せて天田は唇を噛んでいた。
 腹の中でどろどろと重みを増すそれは一向に上向く様子を見せず、真っ白に明るい蛍光灯をまぶた越しに見つめながら天田はベッドに横たわっていた。

 
 
 
 どれくらいそうしていただろう。扉の向こうから聞こえてきた話し声と足音に天田は視線だけ部屋の入り口へ向けた。しっかりとした造りの建物は決して壁が薄いわけではないが、扉越しの人の気配くらいは伝えてくる。殊に、順平の無意識の大声はその内容すら理解できるほどだ。女性陣も帰ってきたようで、順平と並んでよく通るゆかりの声が届く。普段はぱらぱらと一人また一人とラウンジからいなくなるが、今夜は一斉に上がってきたようだった。
 ベッド横にある机の上の時計を見ると、驚いたことに一時間以上天井を見つめたままぼうっとしていたらしい。
 これほど無為に時間を過ごしたのは久しぶりで、眠っていたわけでもないのに身体を起こすのがひどく億劫だった。このまま眠るにしろ、電灯は消さなければならないだろう。だけれど身体を起こせない。指一本動かすのすら煩わしい。眠っていたわけではない。ただ、ずうっと、あの男のことを考えていたのだ。
 それを無為と思うかどうか、天田にはわからなかった。

 部屋の外の一時の喧騒は複数回の扉が閉じる音で再び元の静けさに戻った。就寝する者もいれば各自の時間を過ごす者もいるだろう。影時間まであと少しだが、日付が変わる前にベッドに入る習慣が薄れて久しい。
 天田は先ほどから囚われたままの緑色の闇を思い返した。テレビでは黒い闇を光のように緑が照らしていたが、あと数十分で訪れるあの時間はすこし違う。
 あのライトよりも多少明るい緑が全体を覆い、その上からどろどろと、例えるなら夜毎襲いくる(襲いかける?)シャドウのような、黒い固体と液体の中間のようなものが、染み込むがごとく入り込んでくる。それは、明るい光の下で陰になる箇所へと、だ。
 ぶるり、と身震いをした。
 寒いわけではなく、窓からたまに吹いてくる風は盛夏の頃のそれよりは幾分涼しげだけれど今夜はじっとりと汗を含ませるものだ。ベッドに沈みこんだままの身体はやはり重く、動かす気力も無い今、天田は目を開いているのすら面倒に思えて再び目を閉じた。
 あの時間は、このまぶたの裏にも侵入してくる。

 
 
 コツリ、と控えめだが確かに自分の扉の向こう側から音がした。それがノックの音だと理解するのに一瞬の間があった。
 なにせそれは、一回控えめに鳴らされただけで、その後はしんと静まり返ったままなのだから、空耳や、何か別の音との聞き間違いと疑うのも無理はなかった。
 けれど、一応何かの用事だったら、と思い、身体より先にまず返事をしようと思った矢先、再びコツリと扉が叩かれた。
 先ほどと同じ、たった一回だけの控えめなものだ。
 やはり聞き間違いではなかったとはっきりしたが、それに続けてかけられた声に天田は喉まで出かかっていた返事を呑み込んだ。

「…起きてんのか?」

 扉を隔てて、ようやく届くかどうかの低い、低い声。ベッドに横たわったままの天田は目を見開き、視線だけを動かして声の方を見る。
 返事をすべきか。
 さっき下で別れてから今まで、ずっと思考の中心にいたあの男が、扉一枚隔てた向こうに立っている。
 しかし、返事をしようにもなぜか喉が焼けるように熱く、おかしな吐息がわずかに漏れただけだった。
 身体も金縛りにあったかのように動かない。
 先ほどまでの重みを伴うものではなく、何かに磔にされたかのような感じだ。
 そのまま反応出来ないでいると、またコツリと扉が叩かれた。最初のノックから時間にして二分も経っていないはずだが、天田はもう何時間もこのままだったように感じる。
 三度目のノックに続いて、さっきの様な低い声がまた短く言葉を発した。
「…開けるぞ」
 キィ、と静かな、しかし静まり返った寮には長く響く音を立てて扉は開いた。

 
 
(何だよ、)
 天田はベッドに同じ姿勢で横たわったまま、目を閉じたまま、心の中でつぶやいた。
 結局返事をしそびれてしまい、いまさら身体を起こすのもし辛くなった。目を閉じたまま、足音と、まだ暑いというのに随分な量の服が起こす衣擦れの音だけで荒垣が部屋に足を踏み入れたのがわかった。
 だが、荒垣はそこから進もうとしない。
 部屋の入り口に立ったまま動かない。
 何をしているのか気になって、天田は目を閉じているのをじれったく思った。だけれど、もういまさらこの姿勢を崩せないだろう。すう、と不自然にならないように寝息を立てる。荒垣はまだ動かない。
 何をしに来たのだろう、と再び疑問が頭を過ぎったその時、明るかったまぶたの裏がまっくらになった。
 影時間か?と思ったものの、耳元に届く時計の針の音や、何よりまとわりつくようなあの重いかんじが無いことが、そうではないことを示していた。
 暗くなる直前、ぱちりと乾いた音がした。
 あれはおそらく、電灯のスイッチだ。
 扉の隙間から漏れていた明かりを見て消しにきたのだろうか。だとすればお節介な話だ。天田は暗くなった部屋の中でこっそりと眉をひそめる。
 しかし、すぐに天田はいっそう眉間のしわを深めた。
 そのまま出て行くだろうと思われた荒垣だったが、あの特徴的なブーツの硬い足音は部屋の中へと向かってくる。入り口からベッドまではほんの数歩。すぐに荒垣は天田のすぐ傍、ベッドサイドにまでやってきた。

 
 天田は明るかった時よりもいっそうの注意を払って息をした。すぐそこに立つ荒垣は何をしているのだろう。何もしていないのかもしれないが、視線を感じる。
 どうしようもない居心地の悪さを感じ、ぴくりと無意識に眉が動いたのをきっかけに身体を少しだけ身じろがせた。
「…ぅ……、」
 先ほど返事をしようとして声の出なかった喉はやはり焼けていて、続けてまた乾いた息が漏れた。
 荒垣はまだ動かない。
 天田はもう目を開けてしまおうかと思った。意味の無い狸寝入りを続ける理由は無いと思ったからだ。
 このまま目を開けて、寝ぼけたふりでもしてあの男に驚いてみせれば良いのではないか。
 そうは思った、ものの、まぶたが重い。
 持ち上がらない。
 今夜は一体なんだと言うのか。身体がちっとも思うように動かせない。ただただ、規則的な呼吸を繰り返すことが出来るばかりだ。

 また、硬い足音が短く、そして衣擦れの音がした。
 ようやく出て行ってくれるのだろう、暗闇の中、荒垣は何をしていたのだろうと思った直後、顔の横のベッドが沈みこむのを感じた。
 頬にかすかに触れた乾いた感触からそれは荒垣の手だと知れた。それで今、非常に近いところにいるのがわかった。
 天田は驚きながら、どう反応したものかと考えていた。
 さすがに目を覚ましても不自然ではない状況だ。
 ただ、ここで目を開けたらついさっきそうするよりもずっと対応し辛い状況になるのではないか。それは、天田も、荒垣も。
 それにうろたえる(であろう)荒垣の反応を楽しむ余裕は今の天田にはありそうもない。結局、今出来ることといったら意固地のように規則正しい寝息を立てるのに集中することだけだった。

「…布団くらい…、」
 ぐ、と、顔の横に置かれた手が握られたのがわかった。
 消え入りそうな小さな声だったが、荒垣はそう言った。絞り出すようにして語尾はいつものごとく飲み込んだようだったが、位置の近さから確かに聞き取れた。
 ベッドにかけられた重みはふいに離れ、しばらくかさかさと動いていたが、その動きからおそらく自分に布団をかけようとしていたのだろう。
 しかし、掛け布団の代わりにしているブランケットごと天田はその上に身を横たえているので、それは叶わなかった。
 天田は暗闇の中、それはほとんど自身の意地のためだったが、音と気配でしか荒垣の動きを察することは出来なかった。けれど物音は時に雄弁すぎるほどにものを言うのだと改めて思った。
 荒垣は天田の身の下から布団を引き抜くことを諦め、わずかに悩んでいた様子だったがすぐにまたあの硬いブーツの音を鳴らして窓際へ歩いていった。そうして薄いレースのカーテンを引く音が聞こえ、それから窓を閉める軋んだ音がした。時折流れ込んでくるじっとりとした、しかし確かに夜のにおいを含んだ空気が遮られ、外から届く音も無くなった。
 完全な静寂と、動きをなくした空気の中で天田はますます息を詰める。
 荒垣はまたベッドサイドへ戻ってきた。

 
 
(……っ!)
 よく、声を出さなかったものだと思う。一瞬身体が強張ったのが彼に伝わっていなければいい、と思いながらそれでも天田の頭は動揺するばかりだ。
 荒垣の大きな手が首下に当てられた。それからそのまま無骨な指がまずく動きながら襟の小さなボタンを外す。一番上のそれが外れたとき、首が開放された勢いで呼吸が多少大きくなってしまったかもしれない。天田はもはや呼吸よりも、まず、跳ねる動悸をどうにかしたかった。
 手の動きはそのまますぐ下の二番目、少し下がって三番目のボタンまで外していく。上下を繰り返す胸元はおかしなことになってはいないだろうか。もう、声を出して目を開けてもいいのではないだろうか。
 そんなことをぐるぐると考えていると、ようやく荒垣の手が離れ、それから身体もするりと動いた。
 襟元を広げられたまま、荒垣が入ってきたときから指ひとつ、一寸も動かしていない自分はむしろ滑稽でさえあるだろう。気付かれているかもしれない。どうだろうか。起きていると知って、こんなことをしているのだとすれば荒垣の真意はますますわからない。
 ふわ、と心当たりのある感触とにおいが思考を遮った。
 口元にすこしかかる位置から胸にかけられたそれは、美鶴にもらった触り心地の良いあれだ。
 机の椅子に無造作にかけていたそれが自然に飛んでくるはずもなく、それは荒垣によってかけられたものだと知れる。
「腹は…出ねえか」
 そうつぶやいた後、荒垣は一瞬、腰のホックのあたりに手をやったがすぐに離した。
 口を覆っていた掛け布の位置をずらして正す。
 そうして、腰掛けたままベッドに倒れこんだので履いたままになっていた靴を脱がせ傍らに揃えると、荒垣は出て行った。

 
 
 まだ、動悸がおさまらない。
 天田は扉の閉じる音と共に目を開き、もう一度扉の音が廊下から聞こえてからようやく溜めていた息を吐いた。
「なん、だ…よ」
 右手を持ち上げ襟元を探る。
 丁寧に外されたボタンは呼吸を楽にさせたはずだが、途中から随分と苦しくなった。
 それに、最後。
 掛け布の位置を動かしたとき、今まででおそらく一番、互いの顔が近づいたとき。荒垣は自分の頬を撫ではしなかったか。それは時間にしてほんの数秒ではあったけれど、一瞬手が触れた、というにはあまりに長い。あれには、心当たりがある。
 てのひらの感触はまったく異なるけれど、あれは。
 天田はかっと身体が熱くなった。
 シーツを握り締め、胸にかけられたパジャマを剥ぎ取った。美鶴から渡されたそれは初めて乱暴な扱いを受けたが、天田にそれを気にする余裕はなかった。
 ベッドに額を押し付け、荒く息をつく。
「おまえが、それをするのかよ」
 ひゅう、と呼吸の音が間の抜けた音を立てる。
 それが合図であったかのように、ずん、と周囲の空気が重みを帯びた。影時間だ。
 いつにもまして息苦しい。
 天田は目を固く閉じシーツに顔を埋め、歯を食いしばって息を殺した。眠ったのか、おびただしい時間がただ過ぎ去ったのか、目を開いたときには空は明るくなり始め、空気はひんやりとしていた。

 
 
 まだまだ夏の日差しを残す昼下がり、休日のポートアイランドはこの日も賑わっていた。太陽を遮るものの無い中央広場には人は少ないものの、濃い影を落とすカフェや屋根の下などには僅かばかりの涼しさを求める人々が群がっている。
 しかし、それほどに日影を求める人々も決してここには立ち入らない。ひんやりとした空気はこの一帯ではいちばんだろうが、それ以上に沈鬱な重さを孕むこの場所は、日中を歩く多くの人の求めるところではない。
 同時に、ここの住人もこの時間とは相容れないらしい。
「何してる」
 その位置から声をかけられるのを十分に意識して、天田は振り向いた。予想通りの人物が予想通りの顔をしてそこにいる。
「…荒垣さん」
 溜まり場、とだけ呼ばれるその場所に彼は随分と溶け込んでいた。もうずっと以前からその場所にあったかのように。

 
 
「広場は暑くて。ここってひんやりしてますよね」
 小学生ひとりでカフェってわけにも行きませんし、と足元の小石を蹴って荒垣に視線を向ける。背中ににじんだ汗がすうと引いていくこの場所にあってもまだまだ暑いはずのこの時期において、彼の厚着はひどく不自然だ。
「だから、ひとやすみしようかなって」
「…こんなとこに来んな」
「荒垣さんだっているじゃないですか」
「よくここには来るのか」
「…来ちゃ、いけない理由でも?」
 荒垣が黙り込んだので天田はふっと息を吐いた。
 今もまた、彼は何かを呑み込んだようだ。だけれどそれは、自分の質問に対する答えではないことはわかっている。
 大人の盛り場だとか、治安が良くないとか、そんな答えを返すのは簡単だ。だけれど彼はそれを言わない。
 自分には、自分にだけは、ここに来てはならない理由などないはずだ。そして荒垣はそれを知っているはずだ。
 会話のなくなったことを気まずく思うことはない。天田は錆付いたフェンスを手が汚れることも厭わず無造作に掴んだ。フェンスの備えられた足元には鉄の網に沿って雑草がところどころ伸びている。こんな陽の当たらない場所でも、これほど近代的な建造物の中でも、こうして不恰好に伸びてくるそれは、この路地裏をも計画に入れて一帯を整備した人々をあざ笑うかのようだった。
「荒垣さんこそ、ここには今もよく来るんですか?」
「……」
「前は、よくここにいたんですよね。でも寮に戻ってきてからも来てるなんて思わなかったなあ」
 フェンスを掴んだ手を裏返して、振り向く。
「ねえ…どうしてですか」
 後ろ手に掴んだフェンスはそのままだ。
「……気がついたら、勝手に足が向いてる。そんだけだ」
「理由なんてない?」
「………」
 答えないのは肯定とも否定ともとることが出来る。
 彼は、どちらだろうか。
(ない、なんて、ゆるさない)
 天田は数歩分距離のある、そこが定位置らしい場所に座る荒垣の瞳の奥を探ろうとまっすぐに見据える。目深いニット帽の奥は、今日も暗く翳ってその光は見えない。

 ぎらぎらと輝く目の光、
 それを、ずっと以前、ここから、見た。

 ぎしり、と掴まれたフェンスが音をたてる。
「荒垣さん」
「…言いたくねえ」
「へえ」
 彼が言葉を呑み込むのはいつものことだが、こうした濁し方は珍しかった。荒垣はまっすぐに絡み合っていた視線をそらし、足元に落とす。天田はそれを見下ろすように眺めながら、足を踏み出した。
 この線を越えることがどういうことか、自分でもその結果がわからずどきどきした。おそろしくもあった。こちらを見据えてくる荒垣の視線を見返しながら、歩を進める。段差をのぼって荒垣の座る横に立ち、それから、ゆっくりと振り返った。
 それは、拍子抜けするほどに何もない風景だった。
 ただ、フェンスとコンクリート、アスファルトが打ち付けられた手入れのされていない駐車場。それに落書き。目に飛び込んできたのはそれだけだった。
 荒垣の見つめ続ける場所、あの場所を、この立ち位置から、見る。愕然とするほどに何もない。
 とたんに鼻の奥がつんと痛くなった。
「…よく、飽きませんね、え」
 座った荒垣が見上げてくるのがわかったが視線はそちらに向けない。ただ一点、フェンスの向こうを見つめ続けた。
「ねえ、荒垣さん」
 すう、と深く息を吸い込む。
「どうしてここに?」

「…言いたくねえっつっただろ」
「いいじゃないですか、ね?教えてよ」
 ふふ、そう笑って、視線を合わせてねだる。荒垣の目が見開かれ、その奥にきらと光が見えた気がした。荒垣は唇を噛んで、一瞬口を開きかけたがまたすぐに閉じ、それから深く眉間にしわを寄せた。
「そんな言い方、するんじゃねえ」
 いつもより数段低い、音としては違いはなくとも深く深く沈んだ声に天田は驚いた。
「おまえはそんなんじゃねえだろうが、大人ぶったガキが、いまさら子供ぶるような真似すんな、大人の媚び方なら知ってんだろ」
「だって、僕、子供ですよ」
「大人ぶって子供のフリすんなって言ってんだ。ガキならガキらしく子供ぶってろ」
「そんなの意味わかんないですよ!」
 荒垣は立ち上がり、天田の視線は下から上へ移動する。荒垣はもはや視線を合わせようとはしなかった。
「荒垣さん」
「こんなとこに来んな」
 最初の言葉を荒垣は再び繰り返した。
 ぐいとニット帽をさらに深く被りなおし、天田に背を向ける。天田はその場に立ち尽くしたまま、動くことが出来ない。
「…じゃあ、じゃ、もう一個、聞きます」
 こちらに身体は向けないものの、荒垣は立ち止まったままだ。天田はポケットに突っ込まれたままの右手をきつく見つめながら言葉を続けた。
「あっち側…ここと逆の、向こう側から、ここを見たことは?」
「……ねえよ」
「そう、ですか」
「ここしか、来れねえ」
 そうつぶやいて荒垣は段差を降りた。視線の位置がほとんど同じになる。天田はその後頭部へ睨むように視線を投げ続ける。
「僕、ここに来ちゃだめですか」
「…ひとりで、来るな。危ねえだろ」
「危ないって、そんな」
 思わず乾いた笑みがこぼれてしまう、そんな言葉だ。
「実際、うさんくせえ連中がうろうろしてんだ。わざわざひとりで来るこたねえだろ。わざわざひとりにならなくても、あいつらと一緒にいりゃいい、おまえにここで何かあったら、…」
「…なんですか」
 また、呑み込むのか。
 天田はつい今しがた荒垣の目に灯った強い光を思い出しながら言った。続きの言葉を呑み込んで、それからどうしようというのだ。
「…ここで、おまえに何かあったら、おれは…」
 おれは、ともう一度つぶやいてそのまままた荒垣は口を引き結んだ。天田はその言葉に足元がぐらりと揺れた気がしてあわてて地面を踏みしめた。
「行くぞ」
 そう言って先に歩き出した荒垣を天田は追いかけられなかった。足がこの場に吸い付くようで、顔は表情が抜け落ちたかのようにこわばったままだ。
 すう、と息をゆっくり吸い込む。
「あ…、」
 身体が前方へ傾く。
 荒垣に右手を取られ、前へと引っ張られていた。そのまま歩き出され、でも決してそれは無理に引き寄せられるようなものではない。天田が段差を降りるときには引く力は弱まったし、荒垣からすれば多少ねじれた腕の位置も天田の身長にはちょうどいい。
 だけれど天田はそれを気にする余裕はない。
 先ほどの言葉が頭を渦巻いて、外のことは何も見えない。

 
 
 わかっている。自分から傷つくようなことを言わせようとしていたのは。自らその答えに傷つく可能性を知って、それでも荒垣にそれを言わせようとしたのは自分だ。傷つかせるために、傷つく。それくらい厭いはしない。

 だけれど、これは。

 ここに来るなと、彼は言う。危ないからだとひどく陳腐な言い草だ。だけれどそれは、ここに来てはならない理由ではないだろう。荒垣は天田がこの場所へ来ること自体を止めはしなかった。できなかった、というべきか。ひとりでここに来てはならない理由、それは、この場所で天田に何事か起きてはならないから、だ。
 真横よりもほんの数歩だけ前を歩く荒垣の肩越しにその横顔を見上げ、肌がぞくりと沸き立った。

 おまえがそれを言うのか。

 とられたままの手は力を強めも弱めもしない。荒垣の言葉はただただ白々しい、と天田の胸の内に落ち込み、もはや腹立たせることもない。
 幾分傾いた夕日に照らされた、無表情というにはその下の感情が透けすぎている横顔を見つめる。顔も手も、無骨な男のものだ。そのくせ、ひどく、天田の深い記憶を揺さぶる。奪った張本人が、奪われた者と同じように天田に触れ、視線を向け、思いを向ける。これは、ひどい仕打ちだ。
 ふいに、激しい嘔吐感が天田を襲った。
 一瞬歩む足が止まりかけ、何とか気取られないうちにと落ち着かせた。だけれど彼は振り向くのだ。
(ああ…)
 その、憎らしい顔、胸くそ悪いけど忘れないでいてやる。きっとこの先、ちらちらちらちら、頭に浮かぶ。吐き気がするけど覚えていてやる。逆光が目に入って天田は目を細めた。輝く太陽に照らされ深く黒く落ち込んだ彼の目元の影はより一層色を失い、それが奇妙に思えて仕方がなかった。この顔も、忘れない。あとすこし、それまでに見たすべてを覚えておこうと思った。
 そうして、彼の死んだことを決して忘れない。
 荒垣という男がいて、あの場所にあの時も今もいて、事の済んだ後も決してその存在を忘れはしない。

 だから、もう、あの場所の記憶から出て行ってほしい。その影を、自分とあのひとのあの場所に落としたままにはしないでほしい。あの場所から、その存在ごと消えてなくなってほしい、最低な奴。

 覚えているのは自分だけでいい。

 
 
 
おわり

 



前にコピー本で出したやつです。web再録って難しい…改行とかおかしなことになってますが…
ペルソナ倶楽部で、荒垣さんがいつも座っていた場所から見た先が天田の家のあったところだと知って書いたお話です。

07.04.1発行『"Payback Time"』 web再録08.11.14