乙女チックに10題:01




 すっかり人気のなくなった廊下に足音を響かせ、駐車場に続く通用口をくぐると既に夜も遅い時間だった。冷たくはないが昼の暑さを残さない空気が、冷房になじんだ顔をじわりとなでる。
「あー今夜も熱帯夜ですね」
 一緒に出てきた部下はもともと緩んでいるネクタイを完全に引き抜き襟元を開けた。建物内との気温差でじわりと汗がにじんでいるようだ。堂島はそれを見て不思議な心持がした。
「そんなに暑いか?もう夜だぞ」
「風もないし、うー、じっとりしてますよお。部屋帰りたくないなあ」
 部下はすぐに弱音をあげる根性なしだが特段暑がりというわけではなかったはずだ。いつからか定位置になった駐車場の入口近くに停めてある堂島の車のところまで来ると、足立は当然のようにポケットから車のキーを取り出し、堂島に手渡した。
「今日もお世話になります」
「おまえに渡してたっけか」
「やだな、さっき煙草取ってこいって僕に渡したじゃないですか。で、そのまま」
 僕が忘れて持って帰らなくてよかったですね、と笑う足立の頭をいつものように小突くといつものように片眉をあげて痛いですよ、と文句を言った。
 運転しますか、という部下の申し出を断ってエンジンをかける。まだ冷えてもいないのに勝手にエアコンをいじり、送風を最強にする。ゴオ、というやかましい音と共に吹いてくる風に額を押し付けて、ごく短い前髪を幸せそうに揺らす足立を横目に堂島は署を抜けた。


「そんなに暑いか」
 ようやく落ち着いたのか、エアコンを元に戻し窓の外を見つめていた足立に声をかけた。
「え?」
 ぼんやりしていたのか、びくりと肩をはねさせてこちらを向く。何もめずらしい風景ではあるまいに、没頭するほどの何かがあったのかとかえって堂島が驚いた。
 署から足立の家、そして自宅はごくごく近くだ。ただ今夜はガソリンを入れてから帰らなければならなかった。商店街のスタンドはもう閉まっている時間なのでいつもより少し遠くのスタンドへ寄り、そこで缶コーヒーを買ってやった。足立はそれを手の中に収めたまま窓の外を眺めていた。
「いや…今が、というより、帰ってからが」
 足立は缶をホルダーに置くと、シートベルトに指を滑らせる。
「玄関開けた瞬間、むあっとですね、はは、一日分の熱気が」
 ああ、と堂島は納得した。
 夏の今時期のことだ。カーテンをして出たとしても空気は熱いままこもるだろう。
「狭い部屋ですしね。窓いっこしかないし、開けても全然風通らないんですよ。だから熱帯夜イヤなんです」
 一軒家で家族のいる堂島にはここのところすっかり覚えのない記憶だった。
「ああ、そりゃ大変だな。夜寝れてんのか」
「もーぜんっぜんですよ!クーラーつけててもタイマー切れたらすぐ目覚めますし!夜中何回も起きて、おかげさまで毎日寝不足ですよ、だから」
 続く言葉がわかったので後頭部をはたいてその先を言わせないようにした。足立はまたいつものように片眉を上げ痛いですよと口をとがらせる。その頭から手を離すとき、一瞬指に髪を絡ませる。それもいつものことだ。
「だから、ね。帰りたくないんですよ、あのむわっとした空気が出迎えるのかと思うと」
「うちに来るか…ってわけにもいかねえな、毎日のことだからな」
 足立のアパートの前に着き、車を停める。切れかけの街灯はこうして毎晩送り届けに来るたびに同じようにちらちら点滅していた。
「もっと田舎なら夜は冷えるんだろうがな」
「半端なんですよ、いろいろと。この町は」
 シートベルトを外しながら足立はコーヒーの缶を飲み干す。ごちそうさまでした、と甘ったるい匂いを押し付けるように缶を揺らした。

 ひとりになった車内は冷えすぎていて、エアコンを切った。信号待ちの間に窓を開ければいっせいに虫や蛙の鳴き声が飛び込んでくる。温い風と入れ替わるように冷たい空気は流れて消えた。
 今日は何度あいつの頭を叩いたか。朝、遅刻しかけたときに出会い頭にはたいた。あの時かすかに感じた清潔感のあるにおいの正体はシャンプーだったのだろう。毎晩気の毒なことだ。今頃あいつは今日二度目の風呂かもしれない。そして数時間後、またシャワーを浴びて、同じ香りをまとわせて自分に頭をはたかれる。
 寝苦しいと言っていた。朝、風呂に入って、昼、日中汗をかいて、夜、風呂に入って、それから寝苦しさにまた汗をかく。そしてまた朝。あいつは一日に二度同じことの繰り返しをしている。
 煙草を吸い込むために口元に近付けた指からかすかに今朝のにおいがした気がして、その錯覚に苦笑した。
 朝のにおいが徐々に薄らぎ、じわりと汗がにじんでいく様、夜にはすっかり入れ替わった匂い、それらを一日隣で見ている。今、あいつはそれをリセットしている。これから数時間、あいつはまた同じようにその石鹸の香りを薄めていくのだろう。ただ、それは、自分の隣ではない。
 ふっと煙を吐き出し、眉をひそめた。
 自覚をしてはいるのだ。ひどい独占欲だ。まっさらな朝の状態から、あいつ自身の汗に、煙草に、コーヒーに、身体をまとわせていく様子を逐一隣で見ていたいと思う。毎朝毎晩、リセットされるのならばせめてそれまでの過程でも、と。
 面倒な奴だが手放したくないと思う。最近はさらにその思いが強くなっているように感じていたが想像以上のようだ。あれが、例えば自分と別の人間と組むことになったら。きっとなんだかんだと理由をつけて、結局「他の奴にはまかせられん」とでも言ってなんとか自分の下に置こうとするだろう。自分のことながら容易に想像がついた。
 あれは、ともはや自分の所有物のように口にする。
 執着とか、こういった感情とは無縁の男なのだろうと薄々思う。それが若い人間に特有のものなのかそれともあの男独自のものなのかはまだ測りかねたが、自分の持つような家族や仲間、そして相棒(あいつが冗談めかしてそう呼んでいるのを知っている)に対する感情は、やつにとっては得体のしれないものに違いない。辞令が出ればあっさりと従うだろうし、いつもと何ら変わらぬ顔で「それじゃ」と浅く頭を下げて、それで終わりだろう。毎朝毎晩、水と石鹸で流して、それでリセットできる。あいつはそれが出来る男だ。苛立ちを覚えるのは否定しないが、それはある意味で自分とは違った強さなのかもしれない。現に、自分は執着によって強く、弱くなる人間だと自覚している。
 朝から夜まで、半日以上をこの手に得てもあいつはあっさりときれいさっぱり流してしまって、また自分の前に現われる。その繰り返しで、何の痕跡も自分は残せていない気がした。例えば一晩、あいつが風呂でいつものようにまたまっさらになって、それでも自分がいればどうだろう。寝苦しいと寝返りを打ち、首筋に汗をにじませ、不快な寝息をたてるその隣に、昼間と同じく自分がいる。煙草を吸い、コーヒーをすすりながらあの癖毛に指を絡ませる。
 そこまで考えたところで自宅に着いた。甥の部屋だけ明かりが点いていたが、すぐに玄関にも同様に照明が灯されるだろう。高校生のくせに律儀なものだと思う。あれは、きっと、そうしたものとは無縁なのだ。夜を共に過ごそうともそこで何かしらの痕跡を残そうとも、朝になれば寝汗とまったく変わらぬ気安さで洗い流すのだろう。そしてまたふりだしに戻る。
 自分の執着を愛と考えるなら足立は薄情な男に思える。家族なり、同僚なり、「相棒」なり、決して弱くはない愛着を自分は持っている。けれどそれは人によってはしがらみであったり面倒であったりするだろう。そう考えれば今度は自分が異常で足立の距離感は決して間違ってはいないのかもしれない。
 ガラ、と出来るだけ静かに戸を開ける。きっと玄関に立つ前に鍵を開けにきたのだろう甥が立っていた。
「おかえりなさい。暑かったですね」

 窓際の空気は風呂上りには冷たく感じた。ほとんど空になったビールを舐めながら夜の庭を見つめる。窓がひとつしかないから風通しが悪いとあいつは言った。その部屋で今頃何をしているだろうか。もう眠っているだろうか。あの緊張感のない眉を歪めて暑さにうなされているだろうか。
 車の中でぼんやりと外を見ていた。何を見ていたのか。見上げた先には夏の夜空が広がるのみだ。その視線の先すら得たいと思う感情は、きっと、もう、尋常ではないのだろうと気がついていた。
 
 
 
おわり

 



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たまには堂島さんの片思いもいーよねと思って

09.04.24