乙女チックに10題:05




 その日は真夏の雨の日だった。
 朝から厚い雲に覆われてどんよりと暗く、時折遠くからゴロゴロと雷の音がしていた。
 ぱらぱらと降りだしたのは昼過ぎだ。空が急にまっくらになり、一気に大降りになった。車で外回りをしていた堂島はフロントガラスを流れる水の筋を追いながら眉をひそめた。
「…ひでえな」
 メモを取っていた手を止め、携帯電話を取る。今日は足立とは別行動だったが、同じく町で聞き込みをしている。署を出るときちゃっかり乗り込んできて商店街で降ろしてきたが、傘は持っていなかったはずだ。迎えに行ってやろうと考えたが、時間的に移動しているかもしれない。履歴から名前を探し、コールの3回目で出た。
「足立、今どこだ」
「えっ…」
 聞いている途中で既にわかってしまった。あの軽いジングル。携帯を握る手に力がこもる。
「ジュネスか。いつからいる?」
「え、あー雨降り出しちゃったんで、近くにいたから緊急避難…」
 本当か、と思ったがここで問いただしたところで仕方ない。この雨ではしばらく動けないだろうし、町に人影もまばらになってきた。そろそろ引き上げ時かもしれない。
「今日はもう仕舞いだ。拾っていってやる。ジュネスだな、どのあたりにいる?」
「ほんとですか、いやーラッキーだなあ…東側入口のとこにいます。すみませんね」

 雨は本当にひどかった。視界が水煙で遮られ、遠くの空では時折雷も光っている。ジュネスへ繋がる道の向こう側からは、急な雨にびしょぬれになりながら学生が自転車をこいできていた。それを見ながら、あいつは随分タイミングよく屋根のある場所の近くにいたものだ、と思う。正確には、冷房のきいている屋内、か。
 足立がいつからジュネスにいたのかはわからないが、堂島はいくらか機嫌が良かった。足立に電話をかけたとき、3回目のコールで出たからだ。散々うるさく言い続けて、ようやく守られるようになってきた。
 緊急性のある用件が多い仕事なのだから、電話のコールは3回目までに取れ、と足立がここへ来てすぐに教えた。はじめの頃はなかなか守られず、勤務時間外には出ないことすらあったが、最近は随分改善されてきた。小中学生に言うような小言を繰り返すのは情けなくもあったが、徐々に良くなっていくのは単純にうれしかった。足立がここに来る前どんな仕事をしていたのかは詳しくは知らないが、それとは違うところでどこか仕事に対してやる気をなくしているようなところがあったからだ。若い人間には田舎の小さな仕事がつまらないと感じるのかもしれず、さらにはここへの転勤に何かしら事情があったのかもしれないが、それはこの際関係のないことだ。だから堂島はここでのルール、とりわけ自分と足立の中でのルールを軽視することのないよう伝えた。足立はそれについて特に抵抗も批判もせずにすんなりと承諾するのみであったが、同時に積極的に遵守しようという意志もないようだった。だからこそ、夏を迎えたあたりからようやく馴染み始めた足立をどこかかわいいと思う。
「まるでペットか何かだな」
 ふ、と苦笑を漏らす。信号待ちで停止した道路に対向車は見えない。煙草に手を伸ばそうとして、雨で窓を開けられないことに気がつき思いとどまった。ライターと煙草を助手席へ投げる。
 この助手席も最近は埋まることが多い。勤務中のみならず帰りの道も一緒にすることが多くなった。どこかへ寄るときも、寄らないときも、足立を乗せてアパートまで送り、それから帰ることが増えた。そういえば一番最初に送っていったのはこんな急な雨の日だった。それ以来味をしめたのか、何度か誘われたり、こちらも誘ったり。気付けば朝もたまに拾っていくようになった。
 ただ、こうした帰路を共にするようになったのは堂島の方の事情もあった。この奇妙な習慣が生まれる前までは、終業後も署に残り、資料漁りやら個人的な残業やらをしていた。何ら進展のないそれらは無意識のうちに苛立ちをもたらし、周囲を遠ざけていたように思う。だが、意地になったところでもはや新しい事実が出てくる段階は過ぎている。既に出ている証拠の中からほんのわずかな、あるかないかの綻びを見つける作業でしかない。だが、それをしていないと不安で仕方がなかった。日々に忙殺され自分が妻を忘れてしまっているような、そんな錯覚を、他でもない自分がしてしまいそうでおそろしかった。
 そんな不安を一時的にでも忘れさせてくれたのは、降ってわいた不可解な事件でもあるし、久しぶりに賑わっている家庭でもある。だけれどあの資料室から引っ張り出してくれたのは足立だろう。自ら職場の輪の中から飛び出してしまいそうな、そんな自分の衝動を、あいつはあいつのゆるやかなタイミングで引き止めてくれていた。そういえば、仕事帰りに誰かと飲みに行くなどということは、足立を誘うようになるまではとんと忘れていた。あの能天気な「乗せてってくださいよぉ」は足立のまったく個人的な都合からの発言にすぎないが、それが心にゆとりをもたらしたのは事実だ。意地になったら自分で自分にブレーキをかけられない人間だということを堂島は自覚していた。

 助手席には投げたライターと煙草と共に携帯も無造作に置かれていた。わずかずつではあるが、足立の変化を喜んでいる自分がいる。それに伴って自身も変化している気がした。あれは放っておけない甘ったれの部下だが、それが救いになっているのも事実だ。ともすれば他人を拒絶すらしかねない自分の意固地さをいい意味で和らげてくれていた。大の大人に対して放っておけないというのは自分のひとりよがりな庇護欲かもしれなかったが、それを自覚してなお、目をかけていたいという気にさせられるのだ。
「ったく、菜々子と変わりゃしねえ」
 ジュネスの大きな道路看板が見えてきた。平日の昼間のうえに雨のせいか駐車場はまばらだ。足立を電話で呼ぼうとしたが、ロータリーのあたりは迎えの車が連なっている。買出しがてら迎えにいこうと、トランクに乗せたままにしている傘を引っ張り出し、店内入口の出来るだけ近くへ停めた。

 足立の指定した場所よりも手前の入口から店内へ入ったため、足立を見つけたのはその後姿だった。肉のつき方から自分よりも長身に見えることがあるその姿はこの場所にひどく浮いている。目をこらせば襟足に水滴が見えた。スーツの肩のあたりもよく見れば一段色が沈んでいる。雨に降られたというのはあながち嘘でもなかったようだ。相変わらず少し丸めたその背中に声をかけようとして、喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。

 足立はぼんやりと店内からガラス越しの外を見つめていた。堂島を待っているのだからその姿や車を注意して見ているのだろうと思ったが、その目のうつろさにどきりとした。何かを探すとかそんな視線ではなく、ただ目の前を行きかう人や車、上から下へ移動する雨粒、それらを目に映しているだけのように見える。今、あの視界の中に入っていったとして、足立はそれを堂島と認識するだろうか。どこを見ているのか、何を見ているのか、目をかけていたい、どころか、離せないという気にさせられる。とっさに、背後まで駆け寄り肩をつかんで振り向かせていた。

「う、わ…びっくりするなあ。脅かさないでくださいよ、堂島さん」
 先ほどまでの表情が嘘のようにくるりと変わり、目を大きくして驚いている。つかんだ肩はやはりしっとりと濡れていた。
「中から来るとは予想外だなあ…車、どこ停めました?」
「いや…それよりおまえ、濡れてんじゃねえか」
 肩に置いていた手を襟足に滑らせる。触れた水滴は冷房の効いた店内の空気に冷やされてぞくりとした。
「雨に降られて雨宿りって言ったじゃないですか。信じてなかったんですね」
 ひどいな、と首を傾げる足立の頭を、襟足からそのまま手を沿わせてかき回す。濡れて束になった髪がちりちりと水滴を飛ばすのを目を細めて見つめた。
「な、ん…ですか…?」
 振り払いはしないが迷惑そうな顔も隠しはしない。足立のこういうところは嫌いではなかった。
「いつからここにいたんだ?」
「だ…だからさぼってたわけじゃなくて、」
「そうじゃねえ。これだけ濡れて、ずっとこの冷房だと風邪ひくぞって言ってるんだよ」
 手をのせたままの頭はひやりと冷たい。滴るほどではないがしっとりと濡れている。この自動ドアを一歩出れば雨とはいえむせ返るほどの湿気と熱気に襲われるが、ここは濡れた身体には寒いほどだ。
「そんな、菜々子ちゃんじゃないですよ、お父さん」
「そう変わりゃしねえよ、お前は…、……」
 へらりと笑う足立に、堂島はうまく返せなかった。
 冷えた店内、髪の毛。体温との差はうなじからにおいたつような空気を生み出しているような錯覚を見せた。少し伸びた襟足が首に張り付き、それがひどく艶かしく感じる。ばかな、と頭が否定するが気付けば喉を鳴らしてそこを注視していた。菜々子にこんな感情を持つものか。
「堂島さん?」
「…いや、…おまえいつもここであんなぼけっと突っ立ってんのか?」
 声をかけられ、我に返る。
「いつもって、だから雨宿りだって言ってるのに」
「あんなぼんやりじゃ、犯人も証拠も手がかりも見逃しちまう。…おれも」
 手に、すこし力が入ったかもしれない。
「…やだな、ちゃんと探してましたよ。堂島さんの車と堂島さん」
 頭に乗せたままの堂島の手を足立はすんなり外し、するすると辿って顎を掠め、離れた。
「署でもいつも、僕が堂島さんをいちばんに見つけるでしょう」
 もう行きましょうという足立に促されて、店内で缶コーヒーだけ買って車に戻った。

 ようやく埋まった助手席で、足立はぺらぺらと特に収穫のなかったことを大げさに話した。成果が無いのはこちらも同様なのでそれについて咎めることはなかったが、やかましい、と軽く頭をはたいてやる。短い髪は幾分乾き始めているようだ。
「それはそうとおまえ、今日は出来たじゃねえか。電話」
「電話…、ああ、はい」
 脱いで膝に置いている上着から携帯電話を取り出す。画面から着信履歴を開き、堂島へ向けた。
「すぐ取ったでしょ?ちょうど店の中入って上着拭こうと脱いだときにかかってきたんで…って、これ言わない方が良かったですか?」
 失言、と足立は携帯をしまった。


 その日はそのまま署へ戻り、仕事をして特に残業もせず帰った。雨は夕方には止み、じっとりとした空気が夏の夜風に溶け込んでいた。
 今夜の助手席は空いている。
 湿度にうんざりとし、共に早上がりの足立を飲みに誘ってみたところ断られた。先約があるという。ちらりと自身の腹の奥、火が点いたことに気がついたのは空の助手席を見たときだった。
 自宅までのそう長くもない距離を走りながら、ああ、そんなものかもな、と堂島は思う。結局のところどれほどこちらが価値を見出そうとも、そうと自覚のない行動がほとんどなのだ。それは足立に限ったことではなく多くの人間関係においてあてはまる。恋の正体は勘違いと自惚れとはよく言ったものだ。足立はただ己の欲求、利害、都合に従って行動しているにすぎない。その行動の果てに表れた結果に自分は満足し、好意へと変換させているのだ。それ以外のところでは、先ほどの窓を見つめる姿のように、堂島を視界にも思考にも入れることはないだろう。極端な考え方かもしれないが、あのときの足立の目には確かにそれを信じさせるだけの根拠があった。それがどうにもくやしかった。何も映さないあいつの視界に入り込み、二度とあんな表情をさせたくはないと思う。自分にとって足立がそうであったように、今度は自分が
「…恋、」

(なにを、ばかな)
 唐突に自分の思考を振り返る。
 何を考えていた?あいつに対して。
 教える、目をかけてやる。そうだ。手のかかる部下はまるでわが子のように気にかかる。ひそかに心のよりどころ。
 振り回されて、すこしの嫉妬。
 独占欲。
 …欲情。

 あれは娘ではない。これは娘に抱く感情ではない。そうなのか、という言葉が口をつく頃にはもうとっくにそれが何であるか見えていた。
 
 
 
おわり

 



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堂島さんが足立のどこを好きになったか

09.05.08