秘めやかな宝




「へえ…堂島さん、昨日誕生日だったんですか」

 珍しく堂島が早い時間に帰宅した日の翌朝、出勤してきた姿に足立は違和感を覚えた。普段は捲り上げているシャツの袖を下ろして、どこか不自然に手首を押さえている。そんなところに情事の痕でもあるまいに、と隙をついて手を取ってみれば紙の腕輪?が巻かれていた。
「あー…菜々子が、な…」
 そう言って再び袖を戻す堂島の顔は、恥ずかしそうではあるが口元にうれしさも見え隠れしていた。無骨な手首に不釣合いな黄色い紙テープと色とりどりの装飾?左手の古臭い腕時計とは随分違う。
 聞けば誕生日のプレゼントにと手作りの腕輪を贈られたらしい。所詮子供の図工、といった風のものだったが、その分とても丁寧に作られていた。足立から見ればそれはばからしい贈り物であったが、贈られた本人にとっては違うらしい。大方、出掛けに「お父さん忘れてるよ!」とでも言われたのだろう。律儀に仕事場にまでつけてきて、いざ業務開始となると大切そうに車のボックスへしまっていた。

「僕も何かあげましょうか。一日遅れですけど」
 ふいに思いつきで言ってみた。
 足立は助手席からのぞきこむように堂島を見る。いらねえよ、とあながち迷惑でもなさそうな表情を浮かべるその顔と、ハンドルを握る右手首を交互に見つめた。
「いいですよ、遠慮しなくて。ここ来てからお世話になりっぱなしですし、そろそろお返ししとかないと後でツケが…、」
 いつもより軽めに叩かれる。手が出るのはどうにも直しようのない癖らしいが、こういう時の手加減は嫌いではない。この一月余で随分変わったものだ、と足立は思う。他人との物理的距離は遠ければ遠いほどいい、自分はついこの間までそんな考えだったはずだ。初めて殴られた翌日(堂島と会った初日だった)には出勤したくなくて腹が重かった。人間とは案外すんなりと環境に順応していくものらしい。
(でも、殴られて嫌じゃないっていうのはちょっとな…マゾくせえ)
 トン、とコンソールボックスを指で弾く。中に収められている愛娘の力作には敵わないが、何かないかと重ねて尋ねる足立に堂島は ない、と再度答えた。
「この年で誕生日も何も無いだろう。おれがおまえの誕生日に何かすると思うか?」
「メシおごってくださーいって言いに行きますよ。ちなみに二月なんで」
 聞いてない、とあくまでそっけない堂島にそれでも食い下がる。自分でも不思議な気持ちだった。社交辞令ならばそろそろ切り上げてもいい頃合だが、言葉がぽんぽんと勝手に出てくる。上司を祝いたいのか、と自問してみるが答えはNO寄りだ。引っ越したばかりで金もあまり無い。
「しつけえな、ん…じゃあそこで煙草買ってくれ」
「そんなんでいいんですか。いいすよ」
 ようやく提案された「プレゼント」は、タイミングよく空になったケースを握りつぶしながらのリクエストだった。もともと何かあげたいものやしてやりたいことがあったわけではない。数秒前までのしつこさがストンと落ちたように足立は了承した。



 その時買った煙草は、銘柄は合っていたもののケースが違っていて一悶着あった。
「一緒じゃないですか」
「ばか、おれはソフトなんだよ、覚えとけ」
「えー…違いとかあるんですかあ」
 味が違う、と買い直させられたソフトケースの煙草に早速火を点けながら堂島は満足そうに吸う。封を開けられもしなかったハードケースを手の中でいじりながらその横顔を見ていた。
「これ、どうします?」
「おまえが吸え」
「え…いらないです。てか、これだってプレゼントなんですからまとめて引き取って下さいよ」
 押し付けるようにして箱を握らせると、堂島は人の悪そうな顔をして、いったん胸ポケットへしまい、それからすぐに取り出して足立の手へ戻した。
「おれのモンだからな。おれがどうしようと勝手だろ。「プレゼント」だ。取っとけ」
 ええ、と不満そうに抗議の声をあげる足立に堂島は笑いながら答えた。
「ハードはな、痛えんだよ、角がな」
 胸ポケットを指しながら言う。
「だから持ち歩きにくい」
「そんなもんですか」
「ああ」
 


 現場検証の指揮からそっと抜け出し、足立はひと息ついた。アスファルトの焦げたにおいはまだだいぶひどいが、人は随分まばらになってきた。現場にはもう数人の警官と、無残な姿となった事故車両を残すのみだ。先ほどまで取り囲んでいた野次馬もいないし、「あの」高校生たちもいない。車の運転手ももうここにはいなかった。
 足立はそっと事故車両へ近づいた。もう検証は終わり、引火などの危険もない。あとは移動を待つばかりだった。
 ドアが開いたままの運転席に上半身を潜り込ませる。無残なものだった。外装こそそれほどひどく壊れてはいなかったが、細かく割れたフロントガラスがシートやダッシュボードに一面に散らばっている。手袋をつけたままそのシートへ手を付き、中をまじまじと見た。
(よく無事だったな)
 見慣れたはずの堂島の車は変わり果てていた。
 どんな思いであっただろう。上品とは言いがたいが決して乱暴な運転をすることは無かった堂島が、あれほどのスピードと無謀な運転で、挙句事故を起こした。今まさに手の内から奪われようとしている娘を必死に追いかけ、「犯人」を追い詰めたのだろう。ハンドルにはその時の堂島の、握る跡が残っていやしないだろうかと思った。それほどに彼の姿は必死だった。それは不器用な父親の、何よりの愛情の表明だろう。残念ながらその手は届かなかったわけだが。
 足立は身をさらに奥へ進めた。手袋の向こう側でジャリとガラスの音がする。ドアを閉めようとしたが壊れた時の衝撃でこれ以上動かないようだった。
 ガラスの破片は助手席にもびっしりと落ちていた。時折冗談めかして指定席などと言っていたが今となっては空しい。汚く散らばったガラスに場所を奪われた気がしてにわかに苛立ち、払いのけた。再び自分がここへ座る日が来るだろうか。
 現場に駆けつけた時の堂島は、その身に鞭打って尚生田目を追おうとしていた。一番最初に現着した足立は車内から這うように出てきた堂島を見て気が動転したことを否定できない。とっさに駆け寄り、その身体を支えようと手を伸ばした。
「……」
 払われたのか、それとも単にすり抜けたのかは定かではない。堂島は足立の手を取ることなくそのまま前向きに倒れた。
 自分は傷ついているのだろうか、と足立は自問した。差し伸べた手は取られぬまま、声をかけても返ってくるのは娘の名ばかり。当然だ、それは父として堂島の立場として当然のことなのだ。わかっているのに、あの手をすり抜ける瞬間ばかりが頭に浮かぶ。
 コンソールボックスを開けると、そこには期待した通り、例の紙の腕輪があった。乱雑に入れられたライターや小銭に混じって幼い工作が収められている。五月のあの日から、変わらず大切にしていたのだろう。だけれど常時身につけているわけにもいかないものだから、ここでいつも堂島の傍にいたのだろう。作られてから半年が経とうというのに、糊付けが剥がれることもなくあの日のままの姿をしていた。
 病院の堂島へ持っていってやるかとポケットへ収め、ボックスを閉めようとしたときチャリンと音がした。小銭でも隙間に落としてしまっただろうかとボックスの内蓋を開けると、一段深い物入れとなっているそこに見覚えのあるものが入れられていた。
「これって、…」
 手にとってまじまじと見つめる。紛れもなくそれは、あの誕生日の翌日、足立が堂島にプレゼントして付き返されたハードケースの煙草だ。買った時のまま封も切られていない。
 どうして、と頭の中が疑問で埋まる。

 あの時、足立はそっと堂島の目を盗んでプレゼント「された」煙草をボックスの中へ返しておいた。どうせ自分が持っていたところで吸わないし、こっそり置いて帰ればそのうち勝手に吸うだろうと思ったのだ。
 まさか半年間気付かなかったはずはない。堂島はこのボックスへ細々といろんなものを突っ込んでいたからしょっちゅう開け閉めしていたのを足立は知っている。きっとこの煙草もその日のうちに見つけたはずだ。
「なん、で…」
 ポケットに入れた腕輪が重い。紙製なのだからこんなに重いはずはないのに。急に存在感を示し始めた腕輪をポケットの上から押さえて、足立はシートに座り込む。
 この煙草は間違いなくあの日、足立が堂島にプレゼントしたものだ。封は開いていないが一箇所だけ剥がそうとした跡がある。見覚えのあるものだった。
 持つ手が震える。堂島はこれを見つけて、何を思ったのか。何を思って今日までここに忍ばせておいたのか。
 ハードケースは持ち歩きづらいと言っていた。身には付けず代わりに常に傍らに置いていた娘のプレゼントと同じように、これもそのように、大切にしてくれていたのか。



 足立は車内から出ると、残務処理をしている警官たちに終了の指示を出した。残るはこの事故車の移動だけだ。手配をして、待っている間あの煙草の封を切った。
「足立刑事、煙草吸うんですか」
 一緒に残っていた警官が意外そうに尋ねる。
「あ、ごめん。もう引火の心配もないからいいかなって」
「いえ、煙草は吸わない人だと思っていたので。堂島刑事がうつりました?」
「……もらいものだよ、一応」
 その警官からライターを借りて、煙草に火をつけた。さすがに堂島が好んで吸うだけあってきつい。吸い込んだ喉の奥がつんとした。
「…堂島さん入院かー長くなりそうだな」
「ですね、あの様子じゃ…」
 警官はちらりと足立の胸元に目をやる。堂島を助け起こしたときについた血だ。
「禁煙できるのかな、あの人。はは」
「そうですね」
 買いに行かされるのはきっと自分だろう、と自嘲めいて言えば警官は同情しつつも笑った。足立はまだ随分長く残っている煙草を最後に一度深く吸うと、パトカーの灰皿へ押し付けた。
「病院、行ってくる。堂島さんから話聞かなきゃだし、あと…これ」
 19本残った煙草のケースをひらひらさせる。
「差し入れですか」
「買ってこいって怒鳴られる前にね。このライター貰ってっていいかな」
 どうぞ、と特に興味なく了承され、足立は現場を後にした。


 その夜、足立は自室で火遊びに興じた。暗闇の中ライターの火を揺らめかせ、無言でそれを見つめる。
 堂島は今病院で治療中だろう。目を覚ましたらどうするだろうか。娘がいなくなったと知り、正気でいられるだろうか。胸の奥がずきずきする。だって、
(だって、僕はこんな、)
 違う、と否定したかった。こんなことを望んでいたわけではないのだ。あんな怪我を、あんな顔をさせたかったわけではない。テレビのまっくらな画面を火で照らす。そのまま、彼の大切な紙の腕輪を火にかざした。
 ちらちらと紙の端が茶色く焦げていく。それが広がっていく前に、火を消した。部屋は暗闇に戻り、晩秋の寒さが背中を這った。
 端の焦げた腕輪と、封が切られ一本減った煙草を並べる。これをいつか渡すとき、自分は何と伝えるだろうか。「事故の時に焦げちゃったみたいで」?「なんとか助け出しました」?

 だって、も何もなかった。
 堂島と、堂島の大切なものを傷付けたのは紛れもなく自分だった。
 
 
 
おわり

 




一応誕生日ネタ…

09.05.22